ひだまりソケットは壊れない

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まじめなことを書くつもりでやっています。 適当なことは 「一角獣は夜に啼く」 に書いています。

自殺について、あるいは生の無価値と生きんとする意志の肯定と否定の話

自殺について 他四篇 (岩波文庫)
自殺について 他四篇 (岩波文庫)

ショウペンハウアー著、斎藤信治訳の 『自殺について 他四篇』 を読んだ。 ショウペンハウアーの著作を読むのはこれが初めてで、ショウペンハウアーの主著の内容を前提としている本書を読み進めるのはやや困難であった。 本書は 5 篇から成っており、それぞれ内容としては、次のようなことが述べられていたように思う。

  • 我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて : 現存在であるところの我々の肉体や意識といったものは本質的なる生きんとする意志の表象でしかなく、個体の死は破滅ではなく、知性の喪失によって非認識的な状態に遷移するに過ぎないということ。
  • 現存在の虚無性に関する教説によせる補遺 : 現存在は現象として時間の流れの中に存在し、あらゆるものは次の瞬間には無に帰するため、現在というものだけが実在的なものであり、その現在を享楽すること、そしてそれを人生の目的にすることこそが最高の智慧であり、かつ最高の愚鈍であるということ。 もっと言えば、生きんとする意志の最も完全なる現象は、人間という有機体の上に現れるが、やがてそれは壊滅するものであることを考えるに、この現象の全存在と全ての努力は無に帰するべきものであり、結局のところ生きんとする意志の努力は本質的に虚無的なものであるということ。
  • 世界の苦悩に関する教説によせる補遺 : 人生は苦悩で満たされており、それが目的になってしまっていると言ってよいほどである。 苦痛は意志の抑圧によって引き起こされ、而して認識によってそれを感ずることになる。 人は苦痛のない状態、即ち幸福とよばれる状態を望むが、幸福な状態では人は退屈に耐えられず、結局は苦痛の中に身を置くことになる。 結局のところ人生とは、苦労して果たされるべき苦役のようなものである、ということ。
  • 自殺について : 自殺を犯罪かのようにみなす向きもあるが、自身の身体と生命に関して己ほどの権利を持っているのはこの世にほかに何もないことは明白である。 自殺を禁ずる僧侶どもや刑法はクソである。 死が、純粋に否定的なもの、現存在の突如とした中止のようなものであるならば、未だ己が生命に終止符を打っていない愚鈍なる人間は存在しないであろう。 実際のところ、死には積極的なもの、即ち肉体の破壊が含まれている。 肉体は生きんとする意志の現象にほかならないため、人々はその破壊にしり込みするのである。 とはいえ、その番兵との戦いは、さほど困難なものではない。 精神的苦悩が大きい場合、肉体的苦悩に対して無感覚になり、容易く自殺を遂げられるであろう。 また、自殺は、現存在と人間の認識とが死によってどのような変容を蒙るかを自然に問い掛ける実験とも看做されうる。 しかしこの実験は解答を得るべき意識の同一性を殺してしまうという点で手際が悪い。
  • 生きんとする意志の肯定と否定に関する教説によせる補遺 : 生きんとする意志の否定とは、決して或る実体の絶滅を意味しない。 其れは単に意慾しないというだけの行為である。 我々は意志というものを意慾という行為においてのみまたそれを通じてのみ知っているため、その行為の放棄は我々にとっては無への移行である。 真の救済のためには意慾の否定、其れは多くの場合困窮と苦悩とが必要である。 我々は他人の幸福ではなく不幸をこそ羨むべきであろう。 人生とは苦労して果たされるべき苦役のようなものであるが、それにより人生とは意慾せらるべきものではないということを実感できるところにこそ人生の価値がある、ということ。

人生は虚無で満たされていて、そこにはおよそ価値を見出すことは困難であろう。 甚く賛同できる主張である。 一方で 「生きんとする意志」 なるものについてはいささか疑問の残るところである。 なるほど確かに己が存在が今ここに在ることは生きんとする意志の所以であるかもしれない。 しかしながら認識できぬものに対してとやかく言うのは錯誤めいているように感じられるのである。 認識できぬものを論じ始めると、そも、己が肉体の実存すら危ぶまねばならぬのではなかろうか。 とはいえ彼も述べているように、「生きんとする意志」 のようなものがなければ今頃生きている人間なぞ居ないはずであり、動物的本能などの何かしらの存在は認めねばなるまい。 問題とすべきは生きんとする意志を、ショーペンハウアーが 「本質的なるもの」 と考えた所以である。 これについてはそのうち彼の主著 『意志と表象としての世界』 でも読んで追ってゆきたい。

さて、人生の価値である。 誰しも、何故生きるのか、と自問したことがあるのではなかろうか。 思春期には人生の無価値を鑑み自殺することもしばしばである。 それもまた良き人生であろう。 しかしながら、である。 考えてみるに自殺というのは大いに意志の肯定に他ならないのではないかと最近は思うようになった。 そこには大いに積極性が含まれている。 刻一刻と流る時の中で、明らかなる意志を持って生から死へと移らんとする姿からは意慾を感ぜざるを得ない。 無価値なる物を捨去ろうとするその意志からは、生を欲する意慾と同じぐらい、否、それ以上の強さを感じるのである。 実際のところ、一般的には生への考察を突き詰めると行き着く先は無意欲であり、そこに至るに死による無価値なる生からの脱却ということすら望むべくもない。 そこに至る前にさっさと死ぬものは早計であると言わざるを得ないが、そこに至りてなお死を欲する意欲があるというのは感嘆に値するものである。

ところで意志の否定によって何物をも行わないことについてはどうであろうか。 私はややもするとそのような状態に陥るわけであるが、社会的にみて、其れはあまりよろしい状態とは言えない。 皆がそのような状態に陥れば社会的に衰退して行ってしまうためである。 そこで社会的にはそのような者を糾弾する動きが出てくるわけでそれでなんとか社会は回っているようであるが、逆にそこまでして社会を回す意味があるのかどうかと考えるに最近の政治家のだめさ加減はあえて社会を壊そうとしているようにも見えるわけである。 真の救済だのなんだの言ってみたところで、結局のところ死をもって人は無に帰るというところが人の認識しうる最上のところであり、やはり死をもって救済とみなし、社会の破壊により万物に救済をもたらそうという動きが透けて見える。

否。

愚かしきはなお斯様なことを考え意慾の放棄に至らぬ己が精神である。